昭和43年9月19日 朝の御理解第92節


 ただ今から、昭和43年9月19日朝の御理解を頂きます。御理解92節の最後のところを頂きます。神の守りをしていれば、諸事に身を慎むと言うところ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは氏子が参拝の早い遅いにかかわるぞ。」神の守りをしておれば、いうことは金光様の御信心をしておればと頂きたいと思うですね。立教陣伝の中にも頂いておりますように親に変わり、子にかかりあいよかけよで立ち行く、そういう道を開こう。そういう足すかり方になろう、というところに神の願いがあるわけです。そのためにはお道の信心頂くものには神の守りをしておればというところは金光大神の御信心を頂いておれば、親にかかり、子にかかり、あいよかけよと立ち行くおかげ。そういうおかげを頂く為に私共は御神像を頂いて神様の目に止まった、ということになるのですね。日田の初代の桂先生と言う偉い先生がおられましたが、そのほうの言葉の中に「神人を求め拾う」と言う言葉がありますね。「神人を求め拾う」。お道の信心をする神様のことです。ここは金光大神ではありません。天地金乃神のことです。その神様は」神人を求め拾う」のです。なら、どういう人を求め拾うかというとですね。たくさんの信者を集めようというのじゃあないのです。神人を求め拾うということはね。本当にね、あいよかけよで立ち行ける氏子を神も頼れん。神を頼り、神を信じ、氏子を信じあいよかけよで立ち行けれる人を求め拾うのです。いうなら、本当の信心と言う言葉を使こうておられますね。いわゆる本当の信者を求めたもうのです。神人を求め、拾うと言うてたくさんの信者が厚真ってくればよいがというのじゃあない。それはもう助かって行くと言うことには、たくさんにこしたことはないのですけれども。ただ、ひとえにいうならば、お道の信心が始まり、来年110年の間にどれだけの人が助かったか、分からない。おかげを受けたか分からない。けれども、神様が求められた氏子「神人を求め拾う」いうなら、神様の方から言うならば、「おまえのおかげで世に出た」とこれは生き金光大神に言うておられたお言葉です。けれども、おまえのおかげで人が足す刈るようになったと、たとえば、神様からお礼をおっしゃりたい程の人、そういう人を求めあうのです。神様は私は合楽に御信心を頂いておりますというだけのものではない。そこでわたしどもがね、本当にたとえば、ここの神の守りをしておればいう。その上にね、神の非礼が違うのぞとあります。神の非礼、神のいうならば、勢い、いわゆる神様の働きかけ、それが違うと、そこで私は合楽の信奉者の皆さん、特にこうして朝参りをしておるみなさんには、ここんところを一つ本当に分かって頂きたい。次にね、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ」とこうおっしゃってあります。みなさんはね、そういう神様の願いの一部分ではあるけれども、それを実行しておられる訳なんですよ。皆さんがお家を出て来られるには福岡あたりから、出てこられるにはやはりもう3時頃ぐらい出てこられるのではないでしょうか。なら、近くなら北の善導寺でももう4時には来ておられる方もある。これだけたくさんの人がですよ。いわゆる朝の5時の御祈念の時には**ここへこれだけ集まっておられるでしょう。するとですね。お互いがここ身を慎むと言うところはまあ出来ているいないは別としてですね。朝寝をしてはならぬとおっしゃる。その朝寝をせずに、それこそ、まだ人が夜中を作っておる間にこうして修行が出来ておるということは、もう既に神の願いの一部を表しておられるのです。いうなら、神の言うことを聞いておられるのです。そういう氏子の上にね、神様の働きがけが始まらないはずがない。それこそ、色が黒うてもタドンのようでも雪のダルマの目にとまるとこういうが、神様が一番求めてござるもの身を慎めよ、と。金光様の御信心する者は、身を慎めよと。金光様の御信心するものは、身を慎めよ。朝寝をしてはならんぞ、というその朝寝をしないというだけでもです。それだけでも苦労です。それだけでも修行です。人がまだ、夜中を作っている中にもうすでに起きいでて合楽へ合楽へと皆さんが参ってくる。そういう働きをね。神様が見逃しなさるはずがない。生き神の目に止まる。神様に認められないはずがない。やはり、難しい事らしいですよね。ここへわざわざ言うておられるぐらいですから。金光様の御信心するならば、朝寝をしてはならぬぞ。これは、神の守りをしておればということなんです。これは、金光様の先生ばかりを求めておられるだけではない。神人を求め拾うのである。なら、どういう人を求め、拾うかというとですね。神も助かり、氏子も立ち行く。親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行けれる人、神様も願えられる。氏子からも願われる。願い願われる中、そういう人を求め拾う。これはね、立教の教祖様が立教神伝をお下しなられた。そして、私共がこうして助かるようになった。その助かり方というのはね。どういう助かり方をするかと言うとその方のように実意丁寧、いわゆるその方のような助かり方をする氏子を求めておられる。その方とは教祖様の様なあられ方、そういうようなあられ方、またはそういう様な生き方をです。おまえが一つの手本になっておまえの様な生き方の出けれる氏子を神様は求めておられる。これならば、間違いなしに神様の親にかかり、子にかかり、親のことは子が願い、子のことは親が願い合いよかけよで立ち行けれる。いわゆる頼りになる。いうならば、そういう、そういうことがわからんなりにたとえば、おかげを頂かねばならないために。または、朝の一時のたたずまいというか、そういう雰囲気がありがたいから。または、御理解頂くことがありがたいから、唯単にお参りしておるにいたしましてもです。もうそこには朝寝をしてはならんとおっしゃる。そのことだけは、知る知らずにかかわらず、お互い実行しておるのだと。なかなかこの実行だけだって出来んのだ。神様が頼もうと思っても頼まれん出てこなければ。そうでしょう。それを私共は知る知らずにかかわらず、こうして朝寝をせず人がまだ、休んでおる間にこうしてお広前にお引き寄せ頂いておることをです。あの氏子なら、一つ頼んでもあの氏子にかかれば、と神様がそういう目を動かしなさらんはずがない。せっかく私共がね、こうしてそういう金光教の信者、お道の信心をしておるものは、朝寝をしてはならん。その朝寝をなぜしてならんのか。それは分からんにしましてもです。ここにさっき言うておられる事を私共は実行しておる。そこで神様の目が止まる。皆さんの動きの上に神様の目が止まる。そして神様がです。これから、頼もう、これから頼ろうとなさる。そこでいわば、身を慎めという修行にまた、私共は入って行かなければならないと言うことになるのです。第一段階は突破した私たち第一の願いだけは私共は知る知らずかかわらず、聞いておる。私たちはあ、私たちの朝参りと言うのは、そういう意義があるもんだと皆さんが一応分かった訳です。これからはですね。それだけではいけん。いわゆる身を慎めと言うこと。身を慎めと言うことはいろいろ意味がある。いうなら、改まってくれよ。願ってくれよ。いよいよ力を受けてくれよ。いよいよ本当の信者になってくれよと。だからね、本当の信者の一番基本になるものは私は朝参りだと思うですね。朝寝をしてはならんとおっしゃる。その朝、朝寝をせんですむようなおかげを頂いた人が私は本当の信者のこれは一つの第一の条件なんです。どんなにすばらしい信心だと言ったってですね。朝参りが出来ないようになったら、金光様の御信心で第一条件に欠ける。いわゆるお道の信心は朝参りからと言われるものも、その辺にある。第一の神様の願いであるところの朝寝をしてはならんとおっしゃる。それをまず、私共聞き入れる。私たち次に身を慎めという、身をつつしめと言うことはいわゆる謹んでおるということだけじゃあない。これは、どういう事かと言うと、だって神様がこれから、皆さんに目をつけてそして皆さんに物を頼もうとしておられる分でしょうか。そこを皆さんが自覚というのです。お互い信心の自覚というのはね。だから、たとえば、お役に立ちたい、立ちたいと言う願いを各々がもつ。如何にお役に立ちたい、立ちたいと願ってもね。朝参りも出来ないことでお役に立てれるはずがない。本当の意味においてのそこの第一いわば、条件の皆さんが立たされたわけ。朝参りをなさっておられる人たちはそうなんですよ。ですから、あの氏子はもう神様の目が動いたわけです。いうなら、神様の目に止まった訳です。そこで神様がいうなら、これから頼もうとなさる。その為には私共がですね。汚れ果てておってはいけない。強情であってはならない。いわゆる限りなく美しゅうならして頂くと言うことに努める限りなく素直にならして頂くと言うことにつとめる。神様にどのような御用にお使い回し頂いても、その御用を辞さないで済む。私たちにならして頂くことが願わして頂いて、初めてそこから本当のいわば、そこから、私共の願いが成就してくる。お役に立ちたい。それには、稽古をお役に立ちたいと言う、今申しましたところをね。朝起きを命とさしてもらう。そういう修行させてもらうてお役に立ちたい、立ちたいと願うなら、神様はまず健康のおかげをくださらぬはずがない。そうでしょう。お役に立ちたいと言うて何時も寝取ったんじゃあ。神様がお役に使おうと思うから、まず健康のおかげをくださる。お役にたちたい、お役に立ちたいと願うから、それこそ、金なんかには不自由でもするもんじゃあないほどの財のおかげも頂けれる事も分かってきます。神様がちょっと100万でも出しとけと言われても無かったら、お役にたてんでしょうが、ですから、お役に立ちたい。立ちたいと言う願いがですよ。もっておる。その願いだけじゃあなくて願いのいわば、基盤となるものがです。早起きであり、身を慎むと言うことである。それが出けて後にです。お役に立ちたい、立ちたいと言う願いを持たにゃあいけんです。そこにいわば、子にかかりと言うことになってくる。あの氏子に神様が頼りなさる。神の頼みがそこから始まる。そこに氏子の頼みと神の頼みが交流して親の子は子が頼み、子のことは親が頼む。あいよかけよで立ち行く。そこには、いわゆる金光教の理想教が金光教と言う御信心の理想境がそこから頂けてくる。神と氏子の立ち行きがそこから、頂けてくる。私はありがたい今朝思う。合楽におかげを頂いて朝寝をしてはならんぞとおっしゃる。そういう氏子が子のようにたくさんだんだんふえて来たことなんです。いうならば、神の頼みがいよいよなされる条件に揃うた。条件に叶うた人たちがここにこうして集まって来たということです。そこで私共の自覚としてです。神様にいうならば、白羽の矢を立てられた私たち、神様に認められた私たち、これから度のような難関があってもそれをパスせずには、おかんという私共の修行精神、いわゆる限りなく美しゅうならしてもらう。限りなく素直にならしてもらう。神様が度のようなお使い回し頂いてもそれを辞せんで済む。「はい」と言って神を中心の働きが出来る。いうなら、神様本意の働きが出来る。そこに氏子本意の働きがなされてくる。どうでしょうね。神様が私共本意に働いてくださることになったら、それこそ大変なことなんですよ。大した事なんです。正月にみえました隅田先生なんかは私はそういう一つの良い手本だとこう思うんです。神様の為にもう一切をなげうってあれだけの御用をなさっておられるのにです。長い間、あの頃金光中学と言うたでしょうか。高校の校長を長年無報酬でなされておられた。それこそ、止むに止まれんお役に立ちたい、たちたいと言う願い。なら隅田先生の御信心をあの時分からして頂いた時に3時50分の金光様のお出ましを16年間でしたか。一日だって欠かされたことがない。神様の言われた通りちゃんとそうて行かれた。そこに神の頼みを開かれ自らお役に立ちたい、立ちたいと言う願いが無報酬でああいう働きが出来られた。ということになった。もちろん、現在はやめておられます。本部で何かと言うときにはやはり隅田先生なんかはいうなら、お道の顔役なんです。久留米の*の向かいになる大変立派な邸宅がございます。あれは金光教のもんだそうです。御本部のものです。それを無条件で隅田さん一家に神様が提供されたそうです。いわゆる隅田先生が神様本意に働かれたら、神様が隅田本意で働かれているのです。ですから、そういうね。後から貰えると言うけちなもちろん考えはさらさらないのですよね。いわゆる神様がもう隅田本意の形に入れられた。そこにはもうが入りない働きがある。そういう働きを私は身をもって受けて行く甘木の平田さんもそうだと思う。あちらの名刺を見るともう肩書きが裏にいっぱい書いてある。もうたくさんの会社の重役であり、なんでありと言うような御用を持っておるけれども、それなど見向きもされない、とおもうけれども、神様の御用一点張りで進んでおられる姿を見たら、分かるでしょう。やはり、平田さんの御信心だってもちろん早起き、朝寝をしてはならんといったような事はもう当の昔に身についておられるであろうでしょうけれども、けれども、そういう基盤の基礎と言うものは、やはり朝寝をしてはならんと。お道の信心はまず、朝参りからでその朝参りだってあれを頂かならんから、これを頂かならんからではなくてです。だんだん分かれば、分かるほどにお役に立ちたい、立ちたいという願いがそういう念願が朝参りの姿になって来て、そしてお役に立ちたいと思うてもそれだけではお役に使こうてくださらない。神様はもう皆さんに目を止めておられるいわゆる期待されておられる。ですから、次の身を慎めと言うところを頂いて行く。その身を慎めと言う内容はたくさんありましょうけれどもです。いよいよ改ましてもらう。いよいよ磨かしてもらう。限りなく美しゅうならしてもらう。限りなく素直にならしてもらわなければ、強情であったり、汚れ果ててあったんでは神様が使われるはずがない。そうでしょうが、**:知らん顔して向こう向いておるならば、**はいと素直にこちらに向けられる人、だから、お役に立ちたい立ちたいと願いをもたしてもらう。そのお役に立ちたい立ちたいという。そのお役にたたして行けれる様になってくると、神様の方が私の為にお役にたってくださる。そこにお道の信心が出来たところのお道の信心が立教出来たところの深い意味と言うものが分かってくる。いわゆるいわゆるあいよかけよで立ち行きたい。親の事は子が頼み、子のことは親が頼み立ち行きたい。そういう立ち行き、いわゆる信心共栄のおかげを頂きたいと願い願っておられる神様ですから。私共もそこを願っての信心でなければならない。そこに私は神の非礼がね。違ってくるのです。神様の働きが変わってくる。どうぞ。どうぞと言うてお願いをして頂く。昨日ですね。夜の御祈念の時に頂いたんですけれども、私も意味がわからないのですけれども、こういうことを頂いた。「拝むことは礼をすること。いわゆる拝礼のこと。拝礼すると言うでしょう。拝む礼と書いてあるでしょう。拝礼。叫ぶ心が願いになる。叫ぶ心が願いになる事。心に絶叫するほどのもの。心の底から願わなければ、おられないものでなからなければ、願いになってこないですよ。あれも頼みこれも頼みで拝みよったちゃあ神に通じんですよ。願うというのはね、心の底からのいわば、願いにならなければ、心から、絶叫しなければ、おられない。神様助けてくださいと言うてこれだけはおかげを頂かねばとどうにも出来ない。叫ぶほどのものでなからなければね。お取り次ぎも頂かずにですよね。こんな事願うとおかしかと言うような願いでは願いにならない。次にこれも意味があんまり分からないですけれども苦しいときは詫びる事、お詫び、苦しいときは願うあれではいかん。苦しいときは詫びること、これはもう御祈念のさしてもらう内容であり、実感であると思うのです。この三つはお礼とお願いと詫びるという事はお道の信心の御祈念の内容だと言われています。まず、お礼を申し上げたい。そんなら、どこをお礼申し上げてよいやら、こういう朝早う朝からです。健康なおかげを頂いて朝参りが出来るということは、朝の御祈念にお引き寄せ頂いてありがたいというお礼にならなきゃあいけない。拝むことはこのお礼だけでよかです。拝むとはお礼すること。礼をすること、願うことはね、心の底から、そこに願わずにおられないこと、拝むこと、そのお礼が出来たらね、本当言うたら、おかげを頂くことですよ。願わんでも礼が通うたら、神様に、先日はおかげを頂きましてありがとうございましたと。たとえば、いうなら、そういう喜びをするなら、願わんでおられないという。既にそこから、はじまるですよ。ですからね、拝むことは願うということではないですよ。拝むということは、お礼をいうことなんです。それでも私共は生身を持っている人間ですから、痛いかゆいがあったり、切実に心の叫びですよね。心の底から、絶叫せずにおられないほどの願いを私共は持つことがある。それが初めて願いになる。だから、一心が傾く。神様が揺り動かすようにして頂くならば、神様が動いてくださるのです。苦しいときに詫びる事というのは、どういうことだろうかと思ったんでんけれども。例えば、言うなら、叩かれるでしょう。そんなときどうして叩くかと言うのじゃあなくてこらえてください。こらえてくださいと言う。これが私は実感じゃないかと私はこう思うのです。子供の時たとえば、押入の中に押し込まれる。狭い押入の中に押し込まれる。わんわん泣きわめいてから、出たいと言うてもださせん。もうしませんから、こらえてくださいというともう、親はそれを持っておるごとして出してくれるでしょうがと言うような事じゃなかろうかと思う。苦しいときは詫びる事。自分苦しいときには詫びることなんです。といったようなことを昨日4時の御祈念の時に頂きました。けれどもね、そういう祈りを内容としてですね。同時に私共がね、神様の願いを願いとしての信心、その願いの第一の言うなら、条件であるところの信心するなら、朝寝をしてはならんと言うその朝寝をせんですむ。おかげをだんだん頂いてこうして朝参りが出けておるということは、その条件の一つがもう神様の目ではもう第一の難関は突破したと神様が皆さんの上に目がうごかないはずはない。ですから、なら今度は信心する者は身を慎めとおっしゃる。そこで諸事に身を慎ませて頂くと言うことに専念させてもらう。もちろんその内容は違う。いよいよ神様がね、そこに私共がお役に立ちたい、立ちたいと言う念願を願いを持ってそんなら、今のように汚れ果てておっては神様が使いにくうお案なさる。子のように素直でなくて強情であっては神様が使いにくうおあんなさろうために、素直に慣らしてください。限りなく美しゅうならしてくださいと言った様な願い、そこに神の願いが始まる。次にどういう事かと言うと氏子の願いが成就していく。そこに初めてあいよかけよの働き、親子が立ち行く、神も助かり、氏子も立ち行く。いわば、世界が権限されてくる。いわゆる、信心共栄のおかげが受けられる。その神人共栄のおかげを受けていく事こそ金光教の御信心を頂いておるものの願いでなからなければならんということなんです。どうぞ。